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2011年3月 6日 (日)

多胡碑は何を伝えようとしたのか

シンポジウムを聞きに行った。
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10:00~16:45という長時間だった。
一緒に行った従兄弟は午前の部で帰った。
昼食は「だるま弁当」を
音楽センターの前庭で食べた。
午後は五万石騒動研究会のTさんと
一緒に聞いた。

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コーディネーターは
土生田純之氏

平川南氏は
多胡碑は羊氏が自分で立てたという見解を
石碑の形や碑文の文字という観点から
述べた。

亀田修一氏
岡山の古墳文化と共通するとし
朝鮮半島からの渡来人による
文化説を強調した。

右島和夫氏
古墳時代に渡来文化が
利根川水系と日本海ルートの
双方から来て
上毛野にそれまでとは異なる
文化が起こったことを
古墳やその埋葬品から
伺えると述べた。



以下わたしの感想と想像

朝鮮半島から
来た渡来人が
多胡地域に高度な文化を
築き、この多胡碑を建てたということだ。

羊氏が、渡来人だったのか
それとも和人だったのかの
議論はなかった。

亀田氏は渡来人説を力説したが
右島氏は渡来人文化の
実証に力点を置いていた。

上毛野は古墳時代
東国の一大文化圏を作っていたのだと思う。
朝鮮半島から
日本に来た人々は
気候も温暖で肥沃なこの土地で
大陸文化を
華開かせたのだと思う。

日本人(先住民)との融合が
どのように行われたのかが
わたしには
まだよく推測できない。

高度な文化(漢字文化、製鉄、馬の飼育、養蚕、焼き物)を
持った人々をどのように日本人は
受け入れていったのだろう。

渡来人の言葉と
先住民の言葉が
どのようにコラボレーションしていったかが
分かると面白い。

今、英語がそのまま
どんどん日本語化している。
アイデァ、ワーク、シンポジウム、エトセトラ・・・
渡来人達の言葉が
日本語化していったのも
このようなものだったのかも知れない。

現在の日本は
外国人を受け入れるのに
いろいろな制約をしているが、
古墳時代は
もっと緩やかに(アメリカのように)
渡来人達を受け入れたように思われる。

多胡地域は
古墳時代、
国際都市だったのだ。

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