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2011年9月 3日 (土)

高崎市立佐野小学校の校歌

佐野小学校の校歌は
明治32年11月3日に
作られた。
作詞 石原和三郎
作曲 田村虎蔵

  校歌
 
1 山川清き 上毛の
  佐野の名におう この里は
  からすの川の 昔より
  名に流れたる 里ぞかし

2 教えの庭に つどう子よ
  学びにわざに いそしみて
  君と親とに つくしつつ
  里の名あげよ いや高く

わたしの父母は
このように歌っていた。
しかし、戦後生まれのわたしたちは
2番を
次のように歌っていた。

1 山川清き 上毛の
  佐野の名に負う この里は
  からすの川の 昔より
  名に流れたる 里ぞかし

2 教えの庭に 集う子よ
  学びに技に いそしみて
  広く世のため つくしつつ
  里の名あげよ いや高く

戦後は
「君と親とに」のところを
「広く世のため」と直したようだ。

このことは
父母から聞いていたが
子どもだったので
特に気にしていなかった。

今回、
和三郎の作った校歌を
歌うに当たって
作詞者の意向を尊重すれば
原曲を歌った方が
良いだろう。

その時は
今歌っている歌詞の
経緯を話すようにしたい。

付記

石原和三郎は
1865年(慶応元年)~1922年(大正11年)
だから
戦後、歌詞を変更した際に
本人には
承諾を得ることはできなかった。

そのところは
どうしたのだろうか。

その時の校長は
10代校長 昭和19年3月~
11代校長 昭和21年3月~

この二人のどちらかの校長が
変えたものと
思われるが、
お二人とも冥界入りなので
今は
知ることはできない。

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コメント

高崎市立中央小学校の校歌もそうでした。
いつも一番しか歌わないので、変だなぁと思っていたのですが、ブログを始めてからその理由がわかりました。
http://inkyo.gunmablog.net/e29322.html

時代だったんですねぇ。

投稿: 迷道院高崎 | 2011年9月 4日 (日) 12:25

この校歌を作った時の
佐野小の初代校長が
「小園江章」でした。
この校長と石原和三郎と
繋がりがあったのかもしれません。

「小園江」というと
高崎五万石騒動の理論的指導者
「小園江丹宮」が思い浮かびます。
もしかしたら
この校長は
小園江丹宮と関係がある人かも
知れません。

ちょっと
調べてみたくなりました。

投稿: いちじん | 2011年9月 4日 (日) 22:38

訂正

この校歌を作った年は
明治32年でした。
その時の校長は
小園江章氏ではなく
2代校長の
斎藤幾雄氏でした。
在任(明治25年~40年)

斎藤幾雄校長が
石原和三郎に
依頼したと思われるに
訂正します。

斎藤幾雄校長については
資料が無く
和三郎との繋がりは
現在、不明。

投稿: いちじん | 2011年9月 5日 (月) 11:41

佐野小校歌2番で、もう一つの不思議・・・
昭和30年代後半の卒業ですが、当時は”学びに技に”と歌い、卒業アルバムもそのままです。しかし現在は”学びの技に”となっています。昭和57年あさお社発刊の”校歌アルバム 西毛編”や、昭和49年発行の”百年のあゆみ 高崎市立佐野小学校”では、現在の”学びの技に”になっています。私個人としては”学び=知識、頭脳”と”技=体力”の両面、すなわち”に=と、and”が意味的に通じると思いますが、昭和40年代のどこかで変更されたようです。石原和三郎が書いたのはどちらだったのでしょうか?

投稿: mpaso | 2016年1月25日 (月) 11:15

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