« 豊田勇造ライブ | トップページ | 第56回群馬県合唱祭 »

2012年10月27日 (土)

城趾公民館文化祭

昨日展示の準備がほぼ終わったが

今朝8:00から、配付する資料の印刷を

OさんとHさんとわたしの3人で行った。

開会に辛うじて間に合った。

展示 

 パネルを少し移動したり、本(資料)をテーブルに列べたりして

 展示が完了した。

Dsc_0119

Dsc_0120

Dsc_0121

Dsc_0122

Dsc_0123 

Dsc_0124

Dsc_0125

Dsc_0126

Dsc_0128     

公開 

 10:00~16:00

 他の会の展示を見に来て本会に興味を持った人が

 時々入って来た。

 会員がその方たちにその都度説明に付いた。

鶴さんの来場

Dsc_0132

 伊勢崎からわざわざお出で頂いたので嬉しかった。

 展示を一通り見てもらった後、

 展示についての話をした。

 鶴さんの質問については

 展示内容に詳しい萩原さんに回答してもらった。

 13:00過ぎ、二人で近くの蕎麦屋で昼食。

 松下竜一氏や新木安利氏についての話もできた。

 初対面だったが旧知の友のように

 話が弾んだ。

 再び会場にもどり、

 記念写真を撮った。

 別れに握手した。

堀越さんの来場

 藤岡の堀越三右衛門の実地調査でお世話になった

 堀越夫妻。

 今回は本(資料)の展示に協力して頂いた。

 一揆の伝承についてゆっくりと

 意見交換ができた。

 一揆をした側、

 一揆を受けた側、

 双方の子孫が同じ地域に暮らす中で

 一揆を伝承することの困難さ等を聴くことができた。

まとめ

 来場者は少なかったが、

 本会の展示に関心を持たれる人の来場があり

 充実した情報交換ができた。

 今回、県内の一揆について数ヶ所実地調査を行ったが

 それぞれの所で一揆伝承が地道に

 行われていることを知った。

 そして、それらの人々と繋がりを持つことができたのが

 一番の収穫だ。

|

« 豊田勇造ライブ | トップページ | 第56回群馬県合唱祭 »

コメント

おはようございます、いちじん様。

史実が現在と断ち切られていない場合、確かに扱いが難しい場合がありますね。
例えば秩父事件などがそうで、蜂起した人達の怨嗟の的となった家々は、「鶴家」とか「いちじん家」というように、互いの生活圏の中の事件関係図の立看板などに表記されたりしています。
これは、あくどかったといわれた「鶴家」や「いちじん家」にしてみると、不快な立看板であろうと推察いたします。互いが共生できるといいですね。

かつて、足尾鉱毒事件で古河市兵衛のおつれあいが、被害にあっている人々を犠牲にした上に自己の生活があることに苦悩し、入水自殺をしてしまいましたが、痛ましい事だったと思います。
なかよく暮らせる社会だと良いのですけどねぇ・・・。

今、さとう様からいただいた「五万石騒動の義民像」を拝読中です。中に「同士は秘かに五郷百カ村近い村々にでかけ」という記述があり、またまた???です。
城附き五万石というのは、騒動当時、一体何箇村あったのでしょう。百カ村近くあったとすれば、半数の村は騒動に不参加だったという事になると思うのですが・・・。

投稿: 鶴 | 2012年10月28日 (日) 09:16

ご参考まで。

頂いた資料の中に、「福沢諭吉 『学問ノススメ』で評価」という記載がありますが、福沢は「学問のススメ」の中で、「甚しきは徒黨を結び強訴一揆などゝて乱妨に及ぶことあり耻を知らざるとやいはん法を恐れずとやいわん」と、強訴や一揆のたぐいを切り捨てております。こうした福沢の立場と、五万石騒動を顕彰する立場は、正に対極にあると考えます。

また、今は出典を失念いたしておりますが、鉱毒被害の請願を行う農民の東京への「押し出し」に関しても、けしからん行為であり、取り締まれといわんばかりの論調を新聞記事にしております。

私は福沢諭吉に対して漠然とした偉人像を抱いておりましたが、今は福沢諭吉の功罪は、きちんとした評価がなされるべきであろうと考えております。

会員でもない者の発言で、お気を悪くされたらお許しください。

投稿: 鶴 | 2012年10月28日 (日) 17:44

今晩は、鶴様。

高崎藩内の村数について
調べてみたいと思います。

村の中には、連判状に全員が
署名しなかった村があったようです。
当時は、署名したしないで
村内でも反目し合いがあったのでは・・・
と想像されます。

古川家にそんな悲劇があったことは
知りませんでした。

福沢諭吉の強訴や一揆に対する言動についての
助言を有難うございます。
今後、例会の中で話題にしていきたいと思います。

今後もいろいろとアドバイスを
お願いいたします。

投稿: いちじん | 2012年10月28日 (日) 22:17

こんにちは、いちじん様

騒動当時、高崎藩は士族戸数1444戸(男1405人・女1410人)であり、卒族戸数618戸(男710人・女541人)という事だったらしいですね。
藩内人口は97500人(士族等を含む)という事ですから、4千人が9万人の人々を思いのままにしていたんですね。
藩側が怖れたのは、抑圧している人々が徒党を組む事だったのが良く判る人口比率だと思います。

また、5万石というのは、5万人の大人が一年間に消費する米の量ですから、高崎藩の米の自給率は人口に対して低いですね。しかも5万石のうちの4万石を4千人が取ってしまうのですから、米が足りるわけがありません。
農民が困窮するのは自明だと思います。

投稿: 鶴 | 2012年11月 1日 (木) 17:01

明治初期の高崎藩の人口からの考察を
有難うございます。
藩全体を見渡す視点が大切なことが
分かりました。
有難うございました。

参考
卒族(ウキペディアより引用)
江戸時代において藩によっては「同心」、「足軽」などの名称で呼ばれた武家社会の末端にあった人びとであり、士分格(武士身分)を有さない下級の家臣がこれにあたる。明治新政府によって明治3年(1870年)より一律に「卒族」の呼称が開始されたが、2年後に廃された。

投稿: いちじん | 2012年11月 1日 (木) 23:59

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/183945/55986281

この記事へのトラックバック一覧です: 城趾公民館文化祭:

« 豊田勇造ライブ | トップページ | 第56回群馬県合唱祭 »